人生入門 

生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です

救いとは何か

 ギリシャ神話で、時間の神クロノスは、自分の父を殺して王になった。つまり時間は父を殺していく。常に、絶えず。この時間の無化する性質によって、人間の全ての絶望が成り立っていると思う。「時よ止まれ、お前は美しい」とならないところに人間の「救われるべき」原因がある。
 
 話は変わるが、僕は母親が死んだときに少し違和感を覚えたことがある。母親が死んだ後も、親族は「母さんは〇〇が好きだったよね」とか「母さんはこういう風にしてたね」と母親の話をしていた。僕は、人は死ぬと、てっきりこの世から一切消え去るのだと思っていたので、かなり違和感があった。物凄く月並みな表現だけれど、「死んだ人も思い出の中に生きてる」とはこういうことかと思った。
 けれども思い出も、クロノスに殺されていく。僕は僕の父親の父親の父親を知らない。クロノスに食い殺された。
 
 ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者の「死」という本の中に、結局死後にはどうなるのか、という問いに対して「形而上学的事実」が残ると書いてあった。僕が今こうしてブログに書いていることも学校を中退したことも宇宙的な事実として残るということだろう。本当か?僕は残らないと思う。残るには「観測者」が必要になる。その観察者がいわゆる神なのだと思う。

 ある仏教説話によると、死ぬと、閻魔大王に、自分の行った罪を書かれたノートを見せられるらしい。そこで天界へ行くか地獄へ行くかが決まるらしい。似たような話で、こっちのほうが根本的だと思うが、確かアウグスティヌスが、この世の出来事は全て神のノートに書かれているといったようなことを書いていた気がする。僕が生まれて、老いて、病気になって、苦しみながら、七転八倒しながら生きているこの「記録」がなされているとしたら、それはこの苦しみにも何か「救い」のようなものがあると思う。すなわち永遠性が。全くクロノスに食い殺されて意味のなくなる「苦悩」には救いはない。
 現代のスピリチュアル界隈ではそれを「アカシックレコード」という表現をしているのだと思う。

「昆虫学者がガラス張りの中に昆虫を入れて、それらが物を食うたり、とも食いしたり、つるんだり、鳴いたりしているのをいちいち見ておるように、われわれ生活のいちいちも、じつは「真実」からすっかりのぞかれておるのだ。」これはある禅僧の言葉だが、僕たちは「永遠の真実」からすっかり覗かれている。ということは僕たちの人生や苦悩というのは永遠性を帯びたものであって、それだけで聖化されているということだ。僕の信仰ではそれは阿弥陀仏ということになる。

 意味のない苦しみという観念が人をさらに苦悩させる。ただ、救われた人間の苦悩は、絶対者のノートに記帳されることになる。見ているものがいる。「視線」がある。一人じゃない。苦悩は垂直であり、絶対に無駄だということはない。安心して苦しめるとは、そういうことだと思う。

神様っているの?

しん
〖信〗 シン まこと
1.
《名・造》(言葉で)うそをいわない。まこと。


 清沢満之だったかが、信仰とは主観的事実だと言っていた。なら、それは「思い込み」と何が違うの?と言われるかもしれない。僕は「主観的事実」というのは少し危うい表現だと思う。
 僕は神仏というものは「信」であると思う。そうするとまた「はいはい、信じる人の心の中にいるんでしょ」と言われるかもしれないが、そういうわけではない。「信」がどこにあるのかは、分からない。ここで「信」というのは「まこと」という意味で使っているのだけれど、客観世界に存在するのかもしれないし、主観世界に存在するのかもしれない。もしくは、両方にまたがっている。真宗の「機法一体(心と阿弥陀が一つ)」というのは「信」が主観世界と客観世界にまたがっているということだろう。「信」というのは「信じる人の心の中」にいるのか、「宇宙」にいるのか、もしくはその関係性なのか僕には分からないけれど、僕は神仏というのは「信」であると思う。
 だから信のない人に神仏はいない。心の中にいないという意味ではない。端的にいない。信じたからその人の心の中に仏ができる、というのではない。そういう時間的継起はない。信そのものが仏だ。
 主観世界か客観世界か分からないけれど、世界には「信」がある。つまり仏はいる。信=仏に出会うことが命に出会うことだ。つまり、「ありがたい」ということだ。

ニーチェ関数

「よし、これが生か、ならば(生を)もう一度!」というのが永劫回帰という思想の定式だ。これが生の最高の方程式だ。これを関数にすると「よし、これがXか、ならば(生を)もう一度!」になる。いろいろ作ってみよう。
「よし、これが恋愛か、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これが家族か、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これが仕事か、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これが美か、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これがゲームか、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これがユーチューブか、ならば(生を)もう一度!」
無限に作れる。
 死んでしまった母親に、この永劫回帰の話をしたら「母さんはみんながいるから何回でもこの人生があってもいいわあ」と言っていた。晩年は癌の苦しみと戦ったが、母親は人生を根源的に肯定していたのかもしれない。母親の場合は「よし、これが家族か、ならば(生を)もう一度!」だと思う。

 この関数には基本的になんでも入れることができるけれど、入れたらバグるものが少しある。
 「よし、これが南無阿弥陀仏か、ならば(生を)もう一度!」
 「よし、これがイエス・キリストか、ならば(生を)もう一度!」
 南無阿弥陀仏や、イエス・キリストに出会うと、人生が回帰しない。この人生が永遠に続いていく。ニーチェ関数は、宗教を入力するとバグる。そしてこの「バグ」がニーチェを超えていくことなのだと思う。ニーチェの肯定よりも、より深い肯定。生まれてきてよかったと本当に思えるものに出会えること。ニーチェ式の輪廻から抜け出ること。バグがある。僕は永劫回帰をぶち破って、浄土へ行きたい。

言葉 生命肯定

ときとして人は、動物は精神的能力を欠いているために話さないのだ、と言う。そしてそれが意味するのは、「彼らは考えないから話さないのだ」ということである。だが彼らは単に話さないだけなのだ。あるいはもっと上手く表現するなら、ー最も原初的な形態の言語を除くとー彼らは言語という道具を使用しないのである。命令する、問う、物語る、雑談をする、これらの行為は、歩く、食べる、飲む、遊ぶといった行為と同様に、我々の自然誌の一部なのだ。——————『哲学探究ウィトゲンシュタイン



 僕は数年前に、言葉とは「鳴き声」だと言っていた。「ここは俺が奢るよ」は交尾のための鳴き声で、「明日遊ばない?」はスキンシップの鳴き声で、等々。これをもっと広げると、言葉とは生きるための「道具」だと言える。人間にアリクイのようにアリを食うための長い口がないように、キリンのように長い首がないように、動物というのは個々で独特の道具を持っている。クジャクの綺麗な羽は「ここは俺が奢るよ」である。
 テレパシーのみで会話する宇宙人が地球に来たとすると、人間も動物も、口から音を出して、なにかコミュニケーションをとっているという点では何も変わらないだろう。「言葉」とは生きるための道具であり、それは鳴き声であり、長い首であり、鳥の巣であり、足の速さだ。

 そういう意味で、「言葉」とはそもそも生命肯定のためにある。言葉の「内容」なんて捨象してしまっても、言葉をしゃべっているという「形式」だけで、「生きるために何かしたい」ということを「示している」。だから言葉を喋るというのは、呼吸と同じだ。それだけで生命肯定だ。

 言葉=鳴き声=生きたい=生命肯定、という形式がある。言葉の内容なんて関係ない。だから思想というのも、もってまわった鳴き声の、生への意志に過ぎない。

 「生きるため」に言葉を吐く、思想を作る。思想の奥には「命」がある。そして、自己を反省して「命」を掴むことができるのは人間しかいないと思う。言葉に拘泥されてはいけない。言葉の奥にある命を掴むこと。鳴き声を発する「意志」を反省的に掴むこと。これは人間にしかできない。
 大いなる命へ帰依します。南無阿弥陀仏

自然美

 死んだ母親にこういう話をされたことがある。「中学生の頃、先生に「机の上に花を置いて毎日見なさい」と言われたことがある。その時は意味が分からなかったけど、この年になったらその意味がよくわかる。」僕もよく分かるよ。
 
 鎌倉時代の、明恵上人だったか、解脱上人だったか忘れたけれど、道端に咲いている小さな花に合掌をして拝んでいたらしい。その花は仏であると。

 概念的な話をすると、悟りを開いた釈尊の目には、一切衆生が成道して見えたらしいし、浄土真宗では信心を頂くとみんな仏の子に見えるので、自然がより「宗教的」になる。ただ僕はこういう風に「説明」をしても、何か物足りなさを感じる。

 僕は植物が好きだ。花が好きだ。最近は花を見るだけで泣きそうになる。「あぁ、生きてる」と思う。僕の命と白い花の命が交差して、「あぁ、生きてる」という感情が生まれる。最近僕は論理哲学論考という本を読んだのだけれど、それに啓発されて「ゆるやかな神秘主義」という言葉を作った。本当は「神秘」という言葉ではなく「不思議」という言葉を使いたいのだけれど、まあどっちも意味は同じで「言葉にできない」ということだ。これを言葉にするのが詩人なんだろうけれど、詩人の排泄物を見るよりも、目の前にある百合の花を見たほうが何倍も魂が打ち震える。僕はこれはなんなんだろう、と思っていたけれど、「あ、これ"美"だな」と最近思った。ショーペンハウアーは美を「生きようとする意志を静めるもの」だと言ったが、そんなことはないと思う。少なくとも僕は自然美を見ると、「いのち」が踊りだす。僕は今まで概念の世界だけで生きてきたけれど、「美」というものも追及しなければならないなあと思った。美というのは主観的な体験だけれど、それを普遍化して、森岡正博の言葉を使えば「誕生肯定の哲学」のようなものを作るのは可能なんじゃないかと思う。

 美、なんて、快楽主義的なものだと思っていたけれど、「深み」があるのかもしれない。地元の海を見るとそう思う。海は限りなく深い。みんな、花を見て、「あ、生きてる、嬉しい。」と思えればいい。

価値観

 僕は反出生主義を「真理」だと思い込んでいる人をカルト宗教にハマっている人と変わらないと思うが、僕の思っている真理、すなわち「結局死ぬから何もかも無駄」というのは「価値観」なのだろうか?カルト宗教なのだろうか?
 これを真正面から父親に否定されたことがあるが、僕は「100年後には何も残ってないから何もかも無駄」と言ったら「父さんは会社も子供も残せてるから意味はある」と言われた。「でも100億年後には地球は太陽に飲み込まれて全員死ぬ」と言ったら「100億年後のことは自分に関係ない」と言われた。

 「価値観」とは「その人の考え方」みたいな言い方をされる言葉だけれど、辞書を引くと「価値観とは、簡単にいえば「何に価値を見出すか」という感じ方を意味する表現。」と出てくる。「結局死ぬから何もかも無駄」というのは価値観だろうか?僕は価値観ではないと思う。

 死=無だとすれば、その人の見ていた、作っていた「主観」が全て「終わり」になり、何もかも「虚しかった」となるだろう。いや、この客観的世界に何かを残せたのだから、虚しくない、と言われるかもしれないが、そもそも「価値がある/価値がない」と判断する主体がいないのだから、その人が死ねば何も価値あるものはない。そもそもの「価値/無価値」という判断基準が蒸発する。

 人間は「価値/無価値」というものが蒸発する「無」へ向かって毎秒老いている。いや、明日その価値観が蒸発するかもしれない。明日死ぬのに何かをするのは「無駄」ではないだろうか?死の上で踊ってる道化。「結局死ぬから何もかも無駄」というのは一つの価値観ではなくて、「価値/無価値」を決める原理が何もなくなるというメタ価値観であると思う。

 結局死ぬから何もかも無駄。だからできるだけ幸せに生きる?でも何もかも無駄。お手上げ。合掌。念仏。

公案

僕は実存に対する哲学的に一番深い問いは「自殺するべきかどうか」だと思うが、世界に対する一番深い問いは「なぜ無ではなく、何かがあるのか」だと思う。
 禅の公案のようなものだ。「両手をうてば声がするが、隻手(片方の手)には何の音があるか」これと同じような問いだ。考えるだけで頭がショートする。
 この事実を「不可解」と言って自殺した青年もいるし、同じく「不可解」と言いながら仏智に帰依していった僧もいる。ただこれは世界のこの問いをどの角度から見るかによって、世界に対する態度も変わると思う。
 理性によって、理解しようとすれば「不可解」と言いながら自殺するしかないだろう。ただこの「不可解」という言葉を様々に言い換えれば微妙なニュアンスで、世界への視線を変えることができると思う。例えば、不思議。例えば、神秘。
 禅の公案は間違いなく宗教的営みだが、この「なぜ無ではなく、何かがあるのか」という合理主義哲学者のライプニッツが提出した問いも、深い意味では宗教的営みだと思う。この絶対的な「分からなさ」。圧倒的な分からなさの前に立つ。神託だと言ってもいいかもしれない。「無ではなく何かがある」というのは「厳粛」「神聖」な事実であり、それだけで世界を荘厳している。

 なぜ何かがあるの?分からない。その絶望的な「分からなさ」の前で立ち尽くす。海がある!風がある!猫がいる!花がある!僕がいる!なぜ?分からない。僕はこの「分からなさ」に対する最適解は「合掌」であると思う。