人生入門 

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人から本を貰った

 マクダウェル倫理学———『徳と理性』を読む。という本を貰った。ありがとう。7つの論文についての解説が載っている。以下要約。本には出てこない例えなども使っている。
 
 第一論文(全体の3分の1ぐらいある)
 マクダウェルは、アリストテレス的な倫理学の視点にたって、近現代的な倫理学を批判する。功利主義やカント的な義務論が主な論敵で、これらの倫理学は「〇〇の状況では××をすべし」という格率を導き出すことに眼目があるが、それは不可能だとマクダウェルは言う。一般論には必ず例外があるから。その例外を認めたルールを作ってもさらなる例外が生まれるだけだろう。だから、倫理学は個別の状況に応じた倫理を説く「個別主義」をとらなければならない。「正しい行為」とは、「徳のある人がその状況でとる行為」のことである。
 ではその「徳」とはなんなのか?それは「状況」から「正しい行為」を認知する能力のことである。この徳という能力によって、「なすべき行為」が「せり出して」来る。徳のある人は、「関心」と「考慮事項」によって、倫理を認知する。関心というのは「〇〇の場合は××をしたほうがいい」という大前提であり、考慮事項というのは「今は〇〇という状況である」という小前提である。徳のある人は、この「関心」と「考慮事項」によって実践推論をするが、これは一般言明ではない。他の関心や考慮事項と衝突する場合もある。ある「関心」によって行為することが正しいのは、ある「当該状況」において、その関心のペアとなる「考慮事項」がせり出されている場合である。例「関心:友達につらいときは慰めたほうがいい」「考慮事項:今友達が泣いている」
 「徳」という「認知」が行為を引き起こす「欲求」になるのはなぜか?という問いには、そもそも認知と欲求は切り離せないとマクダウェルは言う。認知と欲求が乖離するというマクダウェルへの反論は、「言葉と論理で一般的、普遍的な倫理言明が可能になる」という近現代的な錯覚から生まれている。
 個人それぞれが持っている「徳」という認識装置を使って、それぞれの状況へ「倫理的行為」を見出す。ならば相対主義になるのでは、という疑問も起きるだろうがマクダウェルは客観主義的な立場であるので、「客観的」に認識できる、唯一つの道徳が存在する、という。
 徳は最終的に一つにまとめられるが、個別の徳も重要な要素である。勇気、節制、親切さなど。全ての徳は関連している。
 徳は、足し算のようなものだ。ウィトゲンシュタインの有名な思考実験に、足す2を続けている人が、突然1004、1008と足し続けても、それは論理的には誤謬ではないというのがあるが、心情的には誤謬である。それと同じように、徳というのはしつけによって得られる、足す2のようなものである。

 第二論文
 フットの論文がまず紹介される。フットはカントの定言命法を批判していて、全ての道徳は仮言命法だという。フットの理解する定言命法とは「〇〇すべき」と言われたときに、「なんで?」というのが「不合理」な場合である。嘘をついてはいけません、なんで?
 なんで?が成り立つと、仮言命法になってしまう。フットは全ての道徳は「なんで?」と問うことができるという。ホッブズ的な状態を考えよう。万人による闘争があるから、道徳を作る。けれどそれは究極的な原理ではない。
 マクダウェルは、そもそもフットのカント理解が間違っているという。とある行為をしなかった人が、「状況」の捉え方が変わったことにより、その行為をするようになったならば、定言命法。「欲求」が変わったことによってするようになったならば、仮言命法だという。おじいちゃんに席を譲らなかった人が、譲るようになるとする。この人は、「状況の捉え方」を変えただけであって、「欲求」を変えたわけではないので、定言命法である。「欲求」を変えたのでは?と思う人もいるかもしれないが、「自分が得をする」という欲求から「他人が得をする」という欲求に、この人の欲求が「全面的」「一般的」に変わることはありえない。状況の捉え方に言及せずに、欲求の変化について、一般的な記述をすることはできない。
 徳は、この意味で定言命法である。とある状況で、何者にも「黙らせられないもの」が、徳である。

 第三論文
 ウィリアムズの論文の引用から始まる。ウィリアムズは行為の動機の「理由」は不明だとする。一方、マクダウェルは、それは「しつけ」などによって、外在的に仕組まれることで、理由に気づかされることもあるという。今まで気づかなかった理由の存在に回心する。

 第四論文
 非常に細かい議論が続くので要約不可能だった、すみません。

 マッキーの論文の要約から始まる。マッキーは、道徳の反実在論者で、マクダウェルは道徳の実在論者である。
 マッキーは、道徳を、ロックの第二次性質のようなものだと論じる。第一次性質というのは、色のない粒子のことで、第二次性質とは、それが感覚器官に生じるときに生まれる色などのことである。第二次性質は、動物の種類によって色の見え方が違うように、存在論的な地位が低い。
 ロックのこの物質についての2つの性質とパラレルに、道徳について、議論されている。

 第五論文
 ブラックバーンの投射説についての解説から始まる。道徳は、実在しないけれど、人間の主観が、客観に投射する限りにおいて、存在する。例としては、「disgusting」という言葉などが挙げられる。鼻のあたりがむずむずして、不愉快な気分になる。これは主観的な気分なのだけれど、この気分を投射することによって、世界のほうに「disgusting」が存在するように感じられる。倫理的な行為もこれと同じだ。ブラックバーンは、マッキーと違って反実在論ではなく、疑似実在論である。「客観的」に道徳が存在することはないけれど、投射によって非常に「頑強」な道徳概念が生まれるので、道徳についての真偽は言明できる。 
 マクダウェルブラックバーンは、道徳的言明の真理を獲得するのに、2つのやり方があるという。1つは何もしないでも直観的に分かると言う方法。もう一つは、道徳的な真理は、なんらかの努力のすえに獲得できるという立場。両者とも、1つ目の立場はとらない。「直観」という概念はずるいから。説明できない。ブラックバーンは、投射する側の態度が、他者の吟味、批判に耐えられるようにならなければ、道徳的言明についての真偽は言えないとする。他者から「一貫性がない」とか、「社会的にどうなの」と言われる人は、道徳的真理を獲得することはできない。真理概念は持ち主の努力に関するものなのだから、「疑似」実在論足らざるを得ない。
 マクダウェルはそれに異を唱える。別に実在論を否定しなくとも、道徳的真偽を獲得する人は存在できる。
 マクダウェルはまず、投射説を批判する。投射説は、まず、中立的な世界を知覚し、それから肯定、否定という態度をとり、それを世界に投射するという。これはありえない。「オモシロさ」という概念を考えよう。①人は何か世界の特徴を知覚する。②それを面白いか面白くないか態度をとる。③それを、「その事実は面白い」と世界に投射する。これは不可能だ。人が面白いか面白くないか態度をとるのは、いかなる特徴によるのか、それは「面白い」特徴でしかありえないだろう。それでは論点先取だ。
 投射ではなく、客観的に存在する道徳概念を得ていく作業が、必要である。それが「徳」を得ていくということなのだろう。オモシロさや倫理というのは、科学的な目から見ると神秘的なものかもしれないが、確かに実在する。
  
 第六論文
 人は有徳に生きるべきである。人の生まれつきの自然、を探求するのは生物学の仕事であり、習慣という自然を探求するのは倫理学の仕事である。問題含みの自然主義によれば、人には自然科学の言語などによって「徳」を教えることができるが、有望な自然主義によれば、それは教育や人生などから学ばなければならない。
 問題含みの自然主義によれば、人は一般的に、その種族であるからという理由で「有徳に生きるべし」が導かれる。それはありえない。カリクレスやニーチェの反道徳論を取るような人は、そのような議論に乗らないだろう。科学的、合理的に「有徳であるべし」は導かれない。
 そもそも、アリストテレスなどの時代には、「有徳に生きるべし」などは当たり前すぎて、問題にならなかった。中世では世界の意味が神から付与されていたが、近代に入って、世界が脱魔術化されると、世界から意味が剥ぎ取られた。それを大いに進めたのがヒュームである。カントはそれに抵抗したが、脱魔術化には抗えず、この世界には「科学的自然」しかないという新ヒューム主義が台頭してきた。これはいただけない。マクダウェルによると、道徳的価値などのようなものも「自然」である。
 なぜ科学的合理主義が蔓延するのか。それは「責任から逃れたい」という願望からである。例えば進化倫理学という学問があるが、それによって正しいことが全て分かるなら、自分は何も考えなくていい。

 第七論文
 非認知主義とは、道徳とは「感嘆や態度の表明」のようなもので、認知できるものではないという立場である。この立場を批判している。議論が細かいので、要約できなかった。

 全体の感想
 分析哲学の本など普段読まないので、議論が非常に細かくて、新鮮だった。先に「メタ倫理学入門」を読んでおかないと、意味が分からなかったと思う。メタ倫理学入門では、倫理学の立場が百花繚乱、まるで諸子百家の時代にように咲き乱れていて、どの立場も興味深かったが、その本に紹介されている理論の中でも、特に自分が有力だと思ったマクダウェルの本を読んでみた。マクダウェルをめちゃくちゃ雑に言うと、「徳という認知機能は、教育や経験によって与えられる。その徳という認知機能によって、世界に"客観的"に存在する、道徳的真理を獲得できる」というものだ。
 人と話したときに、「道徳って主観的なものだと思う?客観的なものだと思う?」と聞くと、この"脱魔術化"された現代に住んでいる日本人はほとんどの人が主観的なものだという。ネットの人に質問しても、みんなそうだった。これは第六論文によると、科学による、新ヒューム主義である。倫理などは存在しない。あるのは物質だけ。ブラックバーンの投射説などは、主観主義の有力な論理であるが、物凄く現代人の感覚にフィットしていると思う。僕は逆張りオタクなので、そういう科学的世界観に、挑戦したくなってしまう。マクダウェルは道徳の客観主義で、一番洗練されている論者だと、個人的には思う。僕はリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子によって科学的世界観をぶちこまれ、それを否定しながら生きているのがこの7年ぐらいなのだが、僕はそれを主に宗教によって行っている。ただ、この科学的ニヒリズムの「航海なき時代」において、「道徳は客観的に実在する」、そして「人は、経験によって得られる徳によって、世界の道徳的真理を発見し、それに従って生きるべきだ」という主張は、どうやって生きたらいいか分からない、現代の若者にとって、処方箋になると思う。